ここは、のどかな王国ミラドの片隅にある、小さな家
朝の光が、やわらかく差し込む窓辺で、黒猫のみーちゃんが、ぴくりと耳を立てた。
「……ニャ」
夢を見ていた。暗い、とても暗い夢を。
——どこかで、何かが目を覚ます気配がした。
みらおこの世に魔王なんて、ほんとにいるのかな〜
台所から漂ってくるスープの香りの中で、みらおはぼんやりとつぶやいた。
テーブルに肘をついて、窓の外の青空を眺めながら。
こう見えてみらおは勇者だ
35歳、王国のお墨付きを持つ、正真正銘の勇者の血をひくもの
でも今朝の顔は、どう見ても、ただの眠そうなお兄さんだった…



そんなヤツいなけりゃ勇者もいらなくなるし、みたらし団子でも食べながら、のんびりできるのにな〜



みらお、また言ってる
振り返ると、みらいがエプロン姿で苦笑いしていた
魔法使いのわりに料理が上手い、みらおの3歳上の奥さん
いつも家の中を整理整頓して、きれいにしている、しっかり者だ。
「ほら、早く準備して。今日は久しぶりに街に出るんだから」
「は〜い」
のっそり立ち上がったみらおの足元で、丸まっていたみーちゃんが
じっとみらおを見上げる
いつもなら、朝ごはんをねだって、足元にまとわりつくのに、今日は動かない。
「ん、みーちゃん、どしたの?」
「……ニャ」
返事はしたが目が笑っていなかった、黒い瞳がまっすぐに、北の方角を見ていた。


その日の街は、いつもどおり賑やかだった——はずだった。
市場には色とりどりの野菜が並び、子供たちが石畳の上を走り回っている。
みらいはさっそく値段をチェックしながら野菜を選び始め
みらおはその後ろをとぼとぼとついていった。
「ねえみらいちゃん、あの雲、なんか変じゃない?」
みらおが空を指さした
王国のはるか北の空に、ひとかたまりの黒い雲が浮かんでいる。
風もないのに、じわじわと広がっていた。
「ほんとだ……今日は晴れ予報だったのに」
みらいも眉をひそめた
「なんか、嫌な感じがするんだよね〜」
「それ勇者のカン?」
「いや……なんとなく」
そのとき、市場の中でひときわ大きな声が上がった。
「うそだ!……どうしてこんなことに!」
商人の男が頭を抱えている。
話を聞けば、家族に残すつもりで、大切にしまっておいた書付けが
朝起きたら、文字がぐにゃぐにゃに歪んで、読めなくなっていたという
「後で整えて、渡そうと思ってたのに、もうだめだ……」
と男はがっくりと肩を落とした。
少し離れた場所では、老婦人が石段に座り込んでいた。
「なんだか急に、気力がわかなくなって……先のことを考えると怖くて」
街のあちこちで、そんな小さな異変が、静かに広がり始めていた
表情が曇る人、足が重そうな人、ため息をつきながら、空を見上げる人
まるで見えない何かが、人々の心に、じわりと、しみ込んでいくようだった。


「……みらお」
みらいが静かに言った。その声はいつになく真剣だった。
「うん、わかってる」
みらおはゆっくりと北の空を見た。黒い雲は、さっきよりもずっと大きくなっていた。
その夜
みーちゃんは再び夢を見た。
暗闇の中で、何かがほほえんでいる。
人の心の、一番やわらかい場所を狙っているような
そんなほほえみ……自己否定、自己卑下、自己嫌悪——
人が自分を傷つける言葉を、その何かは甘い蜜のように集めていた。
突然みーちゃんは毛を逆立てて、大きく一声鳴いた
「ニャーーーーッ!!」
飛び起きたみらおが、派手におでこを柱にぶつけて
「いったぁ!!……みーちゃん、どうしたのッ⁉」
みーちゃんは、玄関の方向を、じっと見つめたまま、低くうなり続けている
隣の部屋からみらいが
「どうしたの〜!?」と飛んでくる


三人が並んで玄関を見つめる、静かな夜——魔王が、目を覚ましつつあった。
次回:第2話「旅立ちの朝」
みらおに勇者の使命が告げられる。——そして不思議な仲間との出会い


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